東京高等裁判所 昭和58年(く)136号 決定 1983年6月13日
少年 G・D(昭四一・二・三生)
主文
原決定を取り消す。
本件を東京家庭裁判所に差し戻す。
理由
本件抗告の趣意は、付添人が提出した「抗告の申立」と題する書面ならびに「抗告の理由(補充書)」と題する書面に記載されたとおりであり、要するに、主文と同旨の裁判を求め、その理由として、第一に、原決定には重大な事実誤認があるとし、第二に、原決定の処分は著しく不当であるというのである。
そこで、先ず、所論のうち事実誤認をいう点について検討すると、所論は種々主張しているけれども、その要点は、本件における少年の行為は正当防衛に該当するものであつて犯罪は成立せず、かりに正当防衛にはあたらないとしても過剰防衛に該当するというものである。
右の点につき、原決定の「罪となるべき事実」ならびに「附添人の正当防衛の主張に対する判断」を総合してみると、原決定も、本件における少年の行為が急迫不正の侵害に対し自己の身体等の安全を防衛するためになされたものであることを認めているのであり、ただ、その防衛のため必要にして相当な程度を超えたものであると判断しているのであつて、結論としてはいわゆる過剰防衛を認めたものということができる。
原決定の右事実認定ないし法律判断につき、原審記録ならびに証拠物を調査検討し、当審における事実取調の結果をも考え合わせてその当否を考えると、原決定の認定事実(罪となるべき事実ならびに附添人の正当防衛の主張に対する判断の両者を含む。以下においても同じ。)のうち、少年とその実母A子とのこれまでの生活状況、本件当夜右両名が口論をするに至つた経緯、A子が台所から包丁を持出して来て少年に切りかかつたこと、少年がそれを防ごうとし、母ともみ合つたうえ、右包丁を奪い取つたこと、以上の諸点に関する部分は、関係各証拠に照らし相当であると認められる。そして、右の原審認定事実によれば、少年と母A子とがラジオの音のことで口論していた際、A子は台所から包丁を持出して来て、これを振り上げ少年に切りかかつて来たというのであるから、右A子の行動は少年に対しまさに急迫不正の侵害であつたといわなければならず、少年がこれを防ぐため包丁を奪い取ろうとして母ともみ合い、その間母の左前腕部等に切創を負わせたのは、右侵害に対し自己の生命、身体を防衛するためやむを得ないものであつたと認めることができる。この点については、原決定の判断も同旨であるとみられ、その判断になんら誤りはない。
次に、少年が母から包丁を奪い取つた後の状況について、原決定は、少年が右包丁で母の右上腕部および右胸部を相次いで突き刺し、さらに母の左頸部を突き刺し、頸部刺創に基づく総頸動脈および内頸静脈損傷によつて母を失血死させたものと認定したうえ、母A子の年齢、同女が飲酒し酩酊していたこと、少年に包丁を奪われた時点において左前腕部等に数か所負傷していたこと、少年が母よりも体力的に優勢な立場にあつたことなどの諸点からして、少年が母から包丁を奪つた後においては、母から包丁を取り戻されるおそれはなく、同女を容易に組伏せることができ、これによつて自己の安全を守り得たと思われるから、少年が母の右上腕部、右胸部ならびに左頸部を突き刺した行為は、防衛のため必要にして相当な行為であるとは認めることができないとしているのである。しかしながら、原決定も認定しているように、少年の母A子は、少年によつて包丁を奪われた後も、ひるむことなく素手で少年の手や包丁をつかむなどして少年に立向つて来たものであり、これに対し、少年が包丁を突き出し母の右胸部および右上腕部を刺したのは、母の攻勢を制しその手を振り払つて包丁を確保し続けようとするための行為であつたと考えられ(少年の検察官に対する昭和五八年四月八日付供述調書第四項、当審の事実取調における少年の供述各参照)、母に対する積極的、意図的な反撃行為であるとは断定することができず、現場が狭い室内であつたことや母A子も身長が一六〇センチメートルあり(死体検案調書参照)少年と長期にわたり対立、反目し合う関係にあつたことなどをも考え合わせれば、包丁を奪い取るまでの行為に引続く防衛行為として必要かつやむを得ない程度のものであつたとみるべき疑いが強い(少年の右行為による母A子の右胸部および右上腕部の各刺創が同女の致命傷となつたものでないことは関係各証拠上明らかである。)。「少年が同女から包丁を奪つた後は同女から包丁を現実に取り戻されるおそれはなかつたばかりでなく、少年は同女を容易に組み伏せることができ、これによつて自己の身体等の安全を守り得たと思われる。」との原決定の認定ないし判断は、少年の検察官に対する昭和五八年四月五日付、同年四月八日付各供述調書、司法警察員に対する同年四月七日付供述調書等によつて認められる少年と母との争いの緊迫した状況に照らし、にわかに首肯することができない。
さらに、原決定は、「その後同女が少年の手を引張つたのでこれを引離すべく同女の手を振り払うように包丁を同女に突き出し同女の左頸部を突き刺し同女を……失血死させたものである。」と認定しているのであるが、少年の検察官に対する昭和五八年四月五日付、同年四月八日付、同年四月一三日付各供述調書、司法警察員に対する同年四月七日付供述調書、解剖立会報告書、昭和五八年三月三〇日付実況見分調書、「解剖執刀医からの事情聴取結果について」と題する書面等の各証拠によれば、前記のように少年が母A子の右胸部および右上腕部を刺したところ、A子が少年に対し「D」と叱りつけるように言い、少年から包丁を取り上げようとして、包丁を握つた少年の両手をつかんで引つぱり、少年は包丁を取られまいとして争い、母の手を離そうとして引いたり押したりしているうち、母が右足を折るようにして倒れかかり、その際少年の突き出した包丁の刃が母A子の首に刺さつたために、同女に致命傷を与えてしまい、出血死させるに至つたものであることが認められるのであり、右のような経過事実からすれば、少年が右のように包丁を突き出したのは、依然として続いている母の攻勢を制しようとするものであつたと考えられ、積極的に母の頸部をねらつて刺したものとまで認めることはできず、やはり防衛行為の一環としてやむを得ない限度にとどまるものとみるべき疑いが強い。たまたま死亡という重大な結果が発生したからといつて、直ちに少年の行為が相当性の程度を超えたものと判断すべきでないことは当然である。
なお、関係各証拠によれば、少年は三年以上も前から母と争つており、幼少のころから少年に体罰を加えたりし優しさを示さない母を憎み、嫌つていたことが明らかであるが、本件において少年が母に対する防衛行為の際、平素からの憎悪の情を発現させ母に対し積極的に攻撃を加えたと認めるべき十分な証拠はない。
以上のとおりであるから、本件における少年の行為は、母A子から包丁を奪い取る前およびそれを奪い取つた後の各段階を通じ、一体として母A子の急迫不正な侵害に対する防衛行為としてなされたものであり、防衛手段として相当と考えられる限度を明らかに逸脱したものということはできず、正当防衛行為として許容されるものとみるべき疑いが強いのであつて、少年の行為がその違法性に欠けるところはないと断定することはできない。
してみれば、少年について尊属傷害致死罪の成立を認めた原決定には、重大な事実誤認があり、また、法律の解釈適用を誤つたという法令違反があり、その法令違反が決定に影響を及ぼすことは明らかであるから、事実誤認をいう論旨は理由がある。
よつて、その余の所論について判断するまでもなく(なお、付言すれば、かりに本件における少年の行為が過剰防衛にあたるものとしても、それは、防衛のために必要、相当と考えられる程度を著しく超えたものとはみられないこと、行為後において自殺を図つたり一一〇番に電話するなど酌量すべき情状が多くみられること、少年にはこれまで全く非行がなく、高校生としてまじめに勉学していたものであり、性格面において偏りや歪みがあるとしても、それほど著しいものではないこと、死亡したA子の母や妹らを含め多くの関係者が少年に対し寛大な処分を望んでおり、本件においては結果の重大性や社会的影響を特に重視すべき理由はないと考えられること、少年の父やその親せき、学校関係者などが少年を暖かく迎えるべく配慮していることなどの諸点からして、少年に対する処遇としては、在宅保護の措置が相当であり、少年院送致が必要であるとは決して考えられない。)、少年法三三条二項により原決定を取消し、本件を東京家庭裁判所に差し戻すことにして、主文のとおり決定する。
(裁判長裁判官 市川郁雄 裁判官 千葉裕 少田部米彦)